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NOVELS

つきのか

 

 今までありがとう、と彼女はいう。二人分の真っ白な息が、ゆっくりと闇にとけていった。僕たちの頭上には、凍ったように冷え切った銀色の月がかかっている。歪みの無い、限りなく研ぎ澄まされた曲線。それはあまりにも綺麗で、作り物のようだった。

 だから彼女から聞いたサヨナラの言葉、高校生の僕らを引き裂いた圧倒的な距離、何より会えなくなるという不可避の事実でさえも、全てが嘘だと思った。小さい頃にウサギになりたかった君が、満月の晩にいなくなるなんて、あまりにも気が利きすぎているじゃないか。けれど、僕に現実を突きつけてくるのは、悲しいほど大好きな彼女の香りだった。

 彼女は例えるならラベンダーの香りのする女の子だった。この表現はひょっとしたら、ふさわしく無いのかも知れない。ラベンダーよりも甘く、レモンのように透き通った香り。それは本当にラベンダーなのかも知れなかったし、もっと特別な名前の何かかもしれなかった。何故彼女からそんな香りがするのか僕は知らない。僕は幾度と無く彼女に尋ねた。その謎が解けたとき、もっと彼女に近づけるような気がしていた。

「何だろうね?」僕が尋ねるその度に、彼女は切れ長の目をまん丸にさせて首をかしげた。彼女は自分の香りに気づいていなかった。誰よりも親密になった後でも、僕は香りの起源を追い求めた。それは僕自身に課された長い宿題だった。けれど、最後までそれを発見することは出来なかった。最後まで、だ。

 謎は謎のまま、月のきれいな夜に彼女は消えた。長い時間をかけて僕に残していった思い出も、同じだけの時間をかけて、ゆっくりと僕からぬけていってしまった。

 彼女の香り、それは未だに名のない香りだ。肌を刺すような冷たい夜に、僕はそれを思い出す。そんな時、懐かしい香りに引きつけられて空を見上げる。月からは君の香りがしている。光がつくる影法師に君の姿はなくとも。

 

 
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