TOP > NOVELS > 柔らかなコロンと、さくらの花びら

NOVELS

柔らかなコロンと、さくらの花びら

 

「もう行っちゃうのかい?僕は一年も待ったってのに」
「・・・・・・長くいすぎたくらいよ」
 ベランダから入り込む街灯だけが頼りの部屋で、彼女は薄紅色のワンピースに袖を通した。掻き揚げられた長い髪が襟元からこぼれ、いくつもの筋が鈍い光をばら撒く。窓から滑り込んでくる春の風が、彼女と僕の間を通り抜けた。

 カーテンがヒラヒラと揺れる。髪が揺れる、ワンピースが揺れる。
 ごくささやかに、ひっそりと。夜を壊してしまわぬように。

 気づけば僕は何か言おうとしていて、口を開いたまま固まっていた。ほんの一瞬の事だったのに、次の瞬間には僕が何を言おうとしていたのかさえわからない。僕は唐突に彼女の名前をまた聞かなかった事に思い至った。明日になれば彼女は僕に「白いもち肌の女の子」という名前で思い返されるのだろう。そんな事をふと思いながら。

 いなくなる為の準備をしつつ、彼女は僕の様子をしっかり見ていて、唇の端を少しだけ引き上げてみせる。彼女はすぐにもこう言いだすだろう「じゃあ行くわね、バイバイ」。そして二度と僕を振り返えらずにドアの向こうへ消える。僕はそれを少しでも引き伸ばさなくてはいけない。それが時間の問題だったとしてもだ。

 それなのに。僕の体は強制力のある誰かの意思に飲み込まれてしまったみたいに、ベッドに寝そべったまま、ちっとも動いてはくれなかった。
 そうして僕が何かに抗っている間にも、彼女は首の後ろに手を回して背中のジップを引っ張りあげる。僕はあわてて言葉を探した。

「少しでいいんだ。もう少しだけ、一緒にいてくれ」

 彼女は僕を見下ろしてしばらく唸った後、プリンと答えた。

「――プリン?」突拍子の無い言葉に戸惑ったけれど、間の抜けた言葉に少なからずこの状況が変わることを僕は期待した。彼女は次にこんな風にいいだすのではないか? なんとなく気が変わったという風に「もうちょっとここにいようかしら」と。しかしながら、流れというものは何一つ変わる予定を持ち合わせていないようだった。

 彼女は屈みこんで、僕の顔にしっとりとした手を当てる。

 左の頬からひんやりとした冷たさが張り付いて、それは頭の方にまで広がった。その冷たさは、例えるならそのまま「春の夜」だった。日に焼かれた日向の匂いと、それとは程遠い夜の冷気に洗われた春の空気。彼女の体はさっきまであんなに火照っていたはずなのに。

「プリンは美味しくても毎日食べちゃうと飽きちゃうでしょ? たまに食べる、ほんの少しだけ食べるからそれはきっと美味しいの。ずるずるといつまでもいればあなたきっと私に飽きちゃうわ。物事には潮時ってものがあるの。それで今がそれなの」

 それを聞いて、使い古された物語の型に嵌められているような無力感を感じた。僕の気持ちなんかおかまいなしに誰かの描いた物語は着々と進行しているのだ。

「もう一年も待てないよ」

 一年。僕は確かに一年と言った。また来年になれば会えるというのか?

「いいえ、あなたは待つわ。今までだってそうしてきたじゃない」

 今までだって? 彼女の言う「今まで」がまるで思い出せない。僕はきっと大事な事を忘れてしまっているのだ。自分が何かおかしな事になっていると感じる。さっきから思っている事としゃべっている事の整合性がまったく取れない。僕と彼女との距離感、というか立ち位置だってあやふやでデタラメだ。

 思考は駆け巡る。それが誰の物かも分からぬまま。
 記憶が爆ぜる。浮かんだ先から忘れていく。

 まるで乱暴なバーテンにシェイクされているように目の前が渦巻く。次第に意識が遠ざかっていくような感覚に襲われる。ぐるぐると回る視界の一番遠くで、白いもち肌の彼女が含み笑いをする。

「あなたはすぐに忘れるわ」
「僕はすぐに忘れる――」
「私の肌も、私の髪も、私の言葉も」
「君の肌を、君の髪を、君の言葉を――」
「春に私がいることも」
「春に君がいたことを――」
「花が咲く頃にまた――――すわ」
「花が咲く頃にま――」
「さ よ な ら」
「さ よ―――――」

 その言葉をさいごに僕の意識は真っ暗なポケットに嵌まり込んで、何も分からなくなった。

 窓から滑り込んでくる春の風が僕の頬を撫でた。僕はそれがとても気持ちよくて目を覚ます。外はもう十分に眩しい。日の光は、真っ白なカーテンを複雑に反射しながら僕の目を射抜いた。暖かな日向の匂いに僕は何かを思い出しそうになる。記憶を巡ってしばらくベッドの上で固まっていたけれど何かは何かのまま、ゆっくりと崩れていって次に吹いた春の風に溶けて消えた。

 後に残ったのは暖かな記憶だけだった。とても長い恋をしていた気がするけれど、そこに名前や具体性が見出せない。胸の奥で絡まった意識が次第に胸を締め付けてきた。何かがやってきて、何かが去っていった気がする。僕は長いため息でそれをいなして、春のせいだと結論づけた。

 それなのに。

 ベッドのシーツには誰かの残した柔らかなコロンと、さくらの花びらが少し。

 

 
PAGE TOP